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8.谷口先生の「地域学
2024年6月25日(火)より谷口先生の「地域学」が始まりました。
湖東焼から始まり、柏原宿歴史館での「街道について」、荒神山自然の家での「荒神山古墳とその時代」の計3回です。
(1)6月25日(火)の講座
柏原宿歴史館館長の谷口徹先生による地域学の第一回目の講義は「湖東焼の盛衰と美」。
先生は湖東焼研究の第一人者であり、NPO法人湖東焼を育てる会の理事長をされている。
彦根城博物館勤務のときに湖東焼に魅せられ、研究を続けられてきたとのこと。
わかりやすい年表や制作工程、窯場の図などの資料で手際よくそのエキスの説明を受け、井伊直弼の注文した風炉などの名品の紹介もいただいた。
豊かな学識をお持ちの先生にとってはほんの一部であろうが、湖東焼のおおよそは理解できたように思われる。
湖東焼は城下の商人絹屋半兵衛たちにより民窯として創始され、井伊家12代直亮のときに彦根藩の藩窯となり、瀬戸・久谷・京都の職人を招いて高級品を志向するようになった。
しかしながら、伊万里と瀬戸が市場を席捲している中で、近江商人といえども販路を開拓することは困難であった。
また、磁器は陶器とは異なり、成土、成形、素焼き、下絵付、本焼、上絵付、錦窯などの多くの工程で制作される。
そのため、細工師、絵付師、作業員などの多様な人材、さらには土置場、細工場、素焼窯、丸窯などの設備を整備しなければならず、多大な経費が必要となる。
彦根藩でも存廃の議論があったようだが、13代直弼のときに設備を拡充して洗練された高級品の生産に力を入れ、全国にも名が知られるようになり、最盛期を迎えた。
ところが、桜田門外の変で直弼が急逝するとともに湖東焼も衰退、幕末動乱の時代となり14代直憲のときに山口嘉平らに払い下げられ、明治中頃まで民窯として細々と存続した。
鍋島焼(鍋島藩)、九谷焼(大聖寺前田藩)、薩摩焼(島津藩)など、江戸時代には全国に多くの藩窯があり、その盛衰などの経緯は様々である。
近江でも膳所藩により膳所焼が生産されていたことが知られている。江戸初期、膳所城主となった菅沼定芳が御用窯として始め、石川忠総が引き継いでいる。
共に小堀遠州や本阿弥光悦らと親交が深かったことから遠州の指導を受けて茶器に力を注ぎ、遠州七窯のひとつとして諸大名の贈答品として重宝された。
徳川家光のお茶会でも膳所光悦の茶碗が使われている。しかしながら石川忠総亡き後は徐々に衰退していった。
江戸時代中期から後期にかけて梅林焼、雀ヶ谷焼、瀬田焼などが再興されたが、いずれも膳所焼とは趣を異にしている。大正期には膳所焼が復興され、今日に続いている。
湖東焼の名品を現物で鑑賞することは叶わなかったのが心残りではあるが、後日に期待したい。なお、地域学はこの後、柏原宿、荒神山古墳での校外学習が予定されている。
どんなお話を伺うことができるのか、どんなものを見せていただけるのか大いに楽しみにしている。
(2)7月2日(火)の講座
柏原宿歴史館館長の谷口徹先生による地域学の第二回目の講義は「街道について」。
自らが館長となっている柏原宿歴史館を訪問し、中山道の街道の一つである柏原宿について学習しました。
東海道線・柏原駅 駅前の観光ガイドマップ(柏原宿全体が一目でわかるマップです)
当日は何時雨が降るか分からない天候、
午前に講義、午後から宿場町周辺を巡る予定でしたが、周辺巡りを午前の途中からに変更、その前後に講義をすることになりました。
<午前の宿場町巡り>
・柏原宿の特徴を谷口先生に解説していただきながら、町巡りをしました。
しかしながら、雨が降り出す可能性が大きいため、街道沿いのみとなりました。
・柏原御殿跡にて集合写真
<講義の様子>
復習を兼ねて学習した内容の一部を以下に記載します。
①街道の整備
・慶長年間
関ヶ原の合戦の翌年の慶長6年より、徳川家康は主要街道の整備に乗り出す。しかし、前代の戦国大名の下での伝馬制を引き継ぐ形であった。
・寛永年間
寛永12年武家諸法度が制定され、宿駅制度が整備され、確定した。
②宿場の二重支配
・幕府(道中奉行)は問屋(人馬継立、休泊、飛脚、街道維持官吏)を支配
・一方、領主(代官)は庄屋(年貢の徴収、一般行政)を支配
宿場は幕府と領主の二重支配を受けていた。
➂宿場の使命
・江戸時代の宿場の使命は、幕府が定めた多くの特権的な通行を保障することであり、そのために人馬を用意し、宿場間を次々に継ぎ送るとともに、通行者に応じてその休泊を提供することであった。
しかし、その費用は、無賃、安価な「御定賃銭」であった。
・見返りとして、宿場は一般通行者に宿泊を提供できる特権をもった。
(3)7月9日(火)の講座
柏原宿歴史館館長の谷口徹先生による地域学の第三回目の講義は「荒神山古墳について」
午前中は滋賀県下2番目の規模を誇る荒神山山頂にある前方後円墳である荒神山古墳を実地見学しました。
谷口先生監修の現地説明版により古墳全体の解説を受けた後、古墳を回遊し、尾根の成型、段築、葺石、埴輪などの説明を受け、古墳の構造、構築法を理解しました。
午後からは、荒神山自然の家にて、配布資料「荒神山古墳とその時代」に基づき、弥生時代から古墳時代への流れや方形周溝墓から前方後方墳が出現し、大和政権が近江に侵攻して行くにつれ前方後円墳の増加がみられるとのことでした。
また、この古墳がどのように構築されているかや、大和政権と関係が深い大型首長墓であり、琵琶湖の湖上交通権益に深く関わった首長墓であるという古墳の特徴を学びました。
<午前、荒神山古墳の実地見学>
<荒神山自然の家にて昼食>
メニューは事前にカレーを選択していました。
<午後、荒神山自然の家にて講義>
今回が谷口先生による最後の授業でした。授業後、恒例となっている先生へのお礼